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宇都宮地方裁判所 昭和30年(行)10号 判決 1965年6月29日

原告 牟田口吉太郎

被告 国

訴訟代理人 岡本文夫 外五名

主文

一、被告が原告に対し、別紙第一目録記載の土地等について、買収の時期を昭和二二年一〇月二日と定めてなした買収処分は無効であることを確認する。

二、原告その余の請求を棄却する。

三、訴訟費用は、これを二分し、その一を原告、その余を被告の負担とする。

事  実 <省略>

理由

第一、被告が、買収の時期を別紙第一目録記載の土地建物等については昭和二二年一〇月二日、第二目録記載の土地については昭和二四年三月二日、第三目録記載の土地については昭和二六年三月二日とそれぞれ定めて、自創法第三〇条により、三回にわたつて買収処分を行つたこと、右各買収処分当時原告が本件土地の所有者であつたことは、当事者間に争いがな。

そこで以下において、原告が主張する本件買収処分の無効事由について順次判断する。

第二、本件買収処分については、本件土地が牧野であるのに拘らず、これを未墾地と認定して買収した違法があり、仮に右の違法が存在しないとしても、買収権の濫用であるから無効であるとの主張について。

一、原告は、本件買収処分当時本件土地が牧野であつた旨主張するが、原告提出援用の全証拠をもつてしても、未だ右買収当時本件土地が家畜の放牧や採草の目的に供されていたという事実を認定することはできず、却つて後記二においてあわせて説示するとおり、本件土地のうち合計約二三町歩余が農地(そのうち約一五町歩位は、後記関東食品工業株式会社宇都宮農場の従業員が昭和二一年四月頃から耕作を開始し、甘藷トウモロコシ・大豆・麦等の作物を栽培したことがあつた部分、また他の六、七町歩位は、後記閉鎖機関に指定された南洋興発株式会社宇都宮農場従業員の残留組により自家用蔬菜類等の栽培が行われていた部分)といえうるものであつた外は、約六六町歩余 が、雑草や切株から萌芽した雑木が繁茂した原野、又は松檜等の立木が生育する山林の状態にあつたものと認められるから、本件土地が牧野であつたことを前提とする原告の主張は、誤認の瑕疵の重大明白性などその余の争点につき論及するまでもなく、既にこの点において失当であり理由がない。

二、次に買収権濫用の主張について判断する。

先ず、本件買収処分当時における本件土地の利用状況及び使用主体の推移の経緯等の概略を考察するに、成立に争いがない甲六号証の一ないし一〇〇、同第七号証、同第一三ないし第二三号証、同第三〇号証の一、同第三一号証の一、二、同第三二号証の一ないし三、同第三五号証、同第四一、第四二号証の各一ないし三、同第四三、第四四号証の各一、二、同第四五、第五一、第五二号証、同第五五号証の一、二、同第五七、第五八号証、原告本人の供述(第二回)により真正に成立したものと認められる甲第一ないし第五号証、同第二四号証、同第二五号証の一、ないし一二、同第三〇号証の二ないし五、同第三三号証、同第三四号証の一、二、同第三六ないし第三八号証、同第三九号証の一、二一同第四〇号証、証人鈴木誠志の証言により真正に成立したものと認められる甲第四六ないし第五〇号証、同第五三、第五四号証、同第五六号証の一、二、成立に争いがない乙第二八、第二九号証、証人市村弘の証言により真正に成立したものと認められる乙第一八ないし第二六号証、同第二七号証の一、二、同第三〇号証の一、二、及び証人阿久津昂、同小関憲太郎、同市村弘、同矢島信之、同笠原清、同橋本華吉、同伊沢昇、同青木幸次郎の各証言、原告本人尋問の結果(第一、二回、但し後記措信しない部分を除く)、並びに当裁判所の現場検証の結果を総合すると、次の諸事実が認められる(但し、原告が昭和一八年三月四日栃木県知事から企業許可令第三条による事業開始の許可を受けたこと、原告が昭和一九年一一月一二日本件土地の一部を宇都宮陸軍病院に貸与し、更に翌二〇年三月二六日には南洋興発株式会社に対しその残りの大部分の土地建物を貸与したこと、終戦後前記陸軍病院に貸与した土地の返還をうけたこと、昭和二一年三月八日関東食品工業株式会社が設立されたこと、以上は当事者間に争いのない事実である)。

(1)  本件土地を含む一団の土地約一〇〇町歩(通称御幸ケ原)は、もと関係多数地主がそれぞれ所有する山林・原野・農地等であつたが、同所に酪農経営を計画した原告が、栃木県当局の側面的援助を得て、昭和一七年暮頃から翌一八年秋頃にかけ逐次牧場用地として買収したものである。

原告は、昭和一八年三月四日栃木県知事から企業許可令第三条による飲用牛乳小売業開始の許可をえて同所に牟田口牧場を開設すると共に、本件土地の一劃に牛舎・倉庫・事務所等の建物十数棟を建設し、また牧夫・農夫・雑役夫等数十名を雇用するなど、相当程度の規模をもつて牧場経営に着手し、前記建物の西側小川沿いの一劃に設置した四個の放牧場には、一時は乳牛約八〇頭位が放牧飼育されていた。

(2)  ところが大東亜戦争が苛烈になるに伴い、原告は軍の要請により、昭和一九年一一月一二日宇都宮陸軍病院に対し、期間を大平洋戦争終結時までとして、本件土地のうち、中央部付近をほぼ東西に通ずる道路の南側に当る部分を無償で貸与し、更に翌二〇年三月頃には南洋興発株式会社(大平洋戦争中、南洋諸島における開拓事業を目的として設立された国策会社)に対し、期間を一応三年間と定めて、本件土地のうち、前記陸軍病院に貸付けた土地を除いた約六〇町歩の土地(その大部分は未開墾の山林原野で、残りの約六、七町歩位が農地の現況にあつた)、及び牟田口牧場の付属建物全部を、賃料はその頃原告が同会社から借受けていた八〇万円に対する利息と相殺するという約定で貸与し、このようにして、結局原告は牟田口牧場の経営を全面的に廃止してしまつた。

(3)  そして前記陸軍病院では右借受土地に農耕隊を駐屯させ、牟田口牧場の建物の一部を宿舎等に利用し、借受土地の一劃で農耕作業を行い、また既設の牧場施設に軍所有の牛馬数十頭を放牧飼育していたが、終戦と共に農耕隊は漸次引揚げを始め、昭和二〇年秋頃には退去を完了した(前記軍所有の牛馬も屠殺されるなどして全部姿を消した。)

他方、南洋興発株式会社では、昭和二〇年四月頃前記賃借土地に同会社宇都宮農場を開設し、農夫を主体とした数十名の従業員を同農場に配置して農耕作業を始めたのであるが、約六、七町歩の農地に陸稲・甘藷の作付をし、若干開墾作業を行つた程度の段階で終戦を迎え、そして同年暮には同会社が閉鎖機関に指定されたため業務を停止し、同農場も閉鎖機関整理委員会の管理に服することになつた。しかし、同会社が賃借していた土地のうち前記約六、七町歩の農地部分については、同所に残留していた同会社の元の従業員達が、右整理委員会の承認をうけて、引続き各自三反歩宛位の割合で自家用蔬菜類等の作付を行い、こうした同会社従業員の残留組による農耕作業は本件買収処分当時頃まで継続していた。

(4)  右のようにして原告は、終戦後間もなく前記陸軍病院に貸与した土地の返還を受けたのであるが、当時は窮迫した食糧事情にあつたので、原告は本件土地に甘藷・大豆・トウモロコシ等を栽培し、これを原材料として主食に代わる代用粉食の製造加工を当面の目的とする食品事業を行おうと計画し、翌二一年三月八日原告を代表取締役とする関東食品工業株式会社を設立した(尤も、商業登記簿上には上記目的のほか、牧畜・養豚・養鶏・養魚・酪農等の事業目的も掲げられているが、当時における同会社の主たる事業目的は右代用食糧の生産加工にあつた)。

そして本件土地は、同会社の宇都宮農場として発足することになり、地元や近県から募集した約四〇名の農夫を主体にした現場従業員により、同年四月頃から本件土地の一劃(前記陸軍病院から返還をうけた土地のうち、本件土地の中央部を東西に走る道路の南側の部分で、かつ本件土地の西部を南北に走る道路の東側に当る土地)で農耕作業が開始された。なお、当初は関東食品の施設として新規に設けられた事務所倉庫等の建物はなにもなく、すべて牟田口牧場時代に設置され既にかなり朽廃した建物をこれに当てていたが、同年末頃に至つて本件土地の中央部付近に倉庫二棟畜舎一棟従業員宿舎八棟が建築された。

(5)  さて、以上のようにして関東食品の農耕作業が開始されたものの、人員不足のため整地が全般的に不十分で、また雑草の繁茂も甚しく、しかも会社側からは鋤・鍬・鎌といつた農器具すら満足に支給されず、それに肥料も不足しているといつた悪条件が重つたため農耕作業は思うにまかせず、同年末頃までの作付合計面積は約一五町歩程度(トウモロコシ三、四町歩、甘藷五、六町歩、大豆及び大根各二、三町歩、ほかに麦類が若干)にとどまり、収護高も予定をはるかに下廻るという状態であつた。

こうした事態に直面して会社側では、同年末頃従来の共同耕作制を改め、各従業員に担当土地を割当てて一定量の基準収穫高(反当り大根千貫、麦二俵)をあげることを義務付ける責任生産制の採用を決定し、これを翌年度より実施するよう従業員に要求し、強引に会社案を承諾させた。

(6)  ところで、同農場従業員らは同年一〇月頃から従業員組合(組合員約四六名)を結成していたのであるが、前記責任生産制を承諾させられた頃突如会社側から同組合委員長が解雇された事件を契機として、組合が漸次積極的な動きを示すようになり、右解雇反対を叫ぶと共に責任生産制の実施に応じうるだけの農器具の支給や待遇改善等の要求を強く打出し、かくして会社と組合間の対立が次第に烈しくなつていつた。

地方従業員らは、自創法が公布施行せられたのを知るや、本件土地の売渡を受けて自作農に転向しようとの考えを抱くに至り、駐留米軍当局や関係機関にその旨陳情運動を始めるようになり、前記南洋興発の残留組もこれに合流するに至つたが、このような従業員の動向を知つた原告は、翌二二年二月五日従業員全員に対し解雇を宣言し、以後給料の支払を打切るに至つた。そのため従業員組合は、同月七日栃木県地方労働委員会に救済申立をなし、両者間の紛争は翌昭和二三年五月頃まで続いた。

(7)  こうした会社と組合間の紛争の結果、昭和二二年春頃から会社のための農耕作業は全面的停止の状態となり、同時に従業員のうちには農場を去る者が続出し、結局家族を抱えた従業員十数名だけが同所に残留した。

このように決裂した会社と従業員間の関係は、その後何等解決のきざしをみないまま月日を経過し、前記既耕地部分も繁茂する雑草におおわれて次第に未墾地的な様相を呈するようになり、かくして農場経営に行詰つた原告は事業目的の転換を余儀なくされ、本件土地に対第一次買収計画が樹立(同年九月二一日)された頃には、原告は宇都宮工業株式会社を設立し、前記関東食品工業株式会社の倉庫等を利用して茶箱等の製造を開始していた(この一劃の土地は、本件買収処分から除外されている)。

結局、農場経営が挫折して後原告が本件土地で行つた活動としては、右宇都宮工業株式会社の操業開始をあげうるだげで、他に牧場経営は勿論のこと、農場経営の再建に乗り出した形跡もうかがわれない。なお、前記宇都宮農場に残留した従業員達は、各自ごく小面積の土地に自家用蔬菜類等の作付を行つていたが、その合間には付近の農家に手間取り仕事に出掛けるなどして辛うじて生活を維持していた。

以上の事実を認定することができ、原告本人(第一、二回)の供述中、右の認定に反する部分は措信しない。

右認定の事実によれば、原告は昭和一八年三月頃から昭和一九年一一月頃まで本件土地において牧場を経営していたが、戦争が苛烈になるに伴い牧場の経営を廃止し、次いで終戦後の一時期、相当の費用と労力とを投入して本件土地の一劃で農場経営に着手したが、農場従業員組合との紛争という内部的な事情が原因で、ほどなくこれが挫折し、その後事態好転のきざしもみられず、さればといつて別途農場再建の手が打たれたわけでもなく、結局事実上事業廃止の状態が継続するうち、本件土地の一部が農地その余の大部分が未墾地の状態にあつた段階で本件買収処分が行われたことが明らかである。

以上の次第で、仮に、原告が現実の事業の挫折に拘わらず農場経営の意図を捨てていなかつたとしても、更には将来牟田口牧場の再建の夢を本件土地に託していたとしても、国が未墾地買収処分を行うに当つては、当該土地の所有者の利用計画ないし意図に拘束されるものではなく、自作農創設特別措置法の趣旨に基き、自作農の創設と土地の利用開発及びその適正な配分などの目的を実現するために、諸般の事情を考慮し、当該土地の現況に即してこれを未墾地買収の対象となしうるものであるから、前認定の如き状況の下に行われた本件買収処分には何等の瑕疵がなく、また原告主張のように、原告が戦時中本件土地の利用について大いに国策に協力し、又はそのため相当の犠牲を払つたにしても、前述の如き事情経緯の下に行われた本件買収をもつて権利濫用ということはできない。

第三、第一次買収処分についてなされた買収令書の交付に代わる公告は、自作農創設特別措置法第九条第一項但書の要件を欠き無効であるとの主張について。

一、被告が、第一次買収につき、原告に対する買収令書の交付が不能であるとの理由のもとに、昭和二四年二月五日自創法第九条第一項但書により買収令書の交付に代わる公告をしたことは当事者間に争いがなく、また右公告当時原告の住所が東京都港区赤坂台町一五番地にあり、かつ栃木県知事においても右原告の住所を了知していたことは弁論の全趣旨に徴して被告も認めるところである。

二、ところで原告は、被告側においては買収令書の受領方について何等原告に対し通告したことがなく、従つて原告が買収令書の受領を拒絶した事実もないのに、一方的に原告が買収令書の受領を拒絶することが明らかであると認定して公告したものであるから無効である旨主張し、これに対して、被告は、その主張のような経緯をへて原告に対し買収令書の受領方を通知しかつ催促したのに拘らず、原告が受取りに来ないので、右令書を原告方に持参しても原告が受領を拒絶することが明かであると認めて公告に及んだものであるから適法有効であると主張するので、先ず、右公告に至るまでの経緯事情について考察する。

この間の経緯については、成立に争いのない乙第一号証、同第三号証の一、二、同第四号証の一、二、同第七号証、証人岩崎孝一の証言により東京都保管の他府県買収令書内容控簿の一部であると認められる乙第二号証の一、二、証人中山力の証言及び弁論の全趣旨により栃木県保管の出張命令簿の一部であると認められる乙第五号証の一ないし三、証人沢田伸夫の証言により同県保管の未墾地買収令書受領に関する原議書面であることが認められる乙第六号証、及び右各証人の証言、並びに証人長坂禎二、同正司文雄、同星野吉三、同伊沢昇の各証言を総合すると、次の諸事実が認められる。

(1)  栃木県知事は、昭和二二年一二月五日頃東京都知事に対し、原告宛の第一次買収令書(同年一〇月一日発行栃木は第三一五号)を送付して、原告に対する右買収令書の交付方を依頼し、東京都知事は同月一〇日頃更に右買収令書を、当時東京都が都内在住の被買収者に対し他府県から交付方の依頼を受けた買収令書のうち港区在住者関係分を取扱わせていた目黒区農地委員会に転送し、これに基づき同委員会は、同月二四日頃原告に宛て、買収令書を交付するから同委員会に出頭されたい旨を記載した普通ハガキを発送して、原告に通知した。

(2)  その後翌二三年七月上旬頃、前記買収令書の対価を訂正した買収令書が、栃木県知事から前同様東京都知事を経由して目黒区農地委員会に送付されてきたので、同委員会は、同月一九日原告宛に前回同様、右訂正買収令書を受領のため出頭するよう記載したハガキを発送して通知した。

(3)  ところで栃木県知事は、右のように原告に対する買収令書の交付方を東京都知事に依頼したが、依頼後相当の月日を経過しても東京都庁から何等の連絡にも接しなかつたので、昭和二三年八月一〇日頃、当時同県農地部開拓課に勤務して右買収令書の交付方依頼事務を担当していた中山主事をして、先に送付した買収令書の取扱方調査のため東京都庁に出張させ、同主事は、都庁で事情をきいたうえ目黒区農地委員会に出向いて担当係員に問合わせたところ、前記のように原告に対し二回に亘つて買収令書受領のため出頭方通知をしたが原告が出頭しないという返答に接したので、早急に原告に対し買収令書を交付して受領書を県宛に送付されたい旨同農地委員会の係員に依頼して帰庁した(しかし、その頃同委員会から改めて原告に対し買収令書の受領方を催告したような事実はない)が、その後も県宛に右令書受領書の送付はなかつた。

(4)  そこで栃木県知事は、直接原告方に県の係員を出向かせて買収令書受領方を催促させることとし、同月二五日頃右中山主事が原告方を訪れた。しかし原告は不在であつたので、同主事は、応接に出た婦人(原告の家族の一員であるかどうかは明らかでない)に対し、目黒区農地委員会から牟田口牧場の買収令書を受取りに来るように通知があつた筈だが、まだ受領になつていないから早急に受取りに行くよう原告に伝えて欲しい旨を告げて帰庁した。

(5)  しかし、依然目黒区農地委員会からは令書受領書の送付がなかつたので、栃木県知事は、同年一〇月二一日頃原告に対し、県農地部長名で、右買収令書は目黒区農地委員会で保管中であるから至急同委員会に出頭のうえ受領されたい。なお、受領のうえは、令書受領書を県農地部開拓課宛に、また対価報償金受領委任状は東京都農務課宛に提出されたい旨の書面を、普通郵便で発送した。

(6)  それにも拘わらず、原告からも目黒区農地委員会からも令書受領書の送付がなく、翌昭和二四年一月二八日頃には目黒区農地委員会から東京都庁を経由して買収令書が栃木県知事宛に返送されて来たので、買収手続の渋滞を苦慮していた栃木県当局は、同年一月末頃、右の経緯よりして、原告において買収令書の受領を拒絶する意思が明らかであると判断し、かつ遷延した買収事務を完結させるため、原告以外の住所不明の被買収者と合わせて、これらを買収令書の交付不能者とみなし、買収令書の交付に代わる公告をなすべく決定し、同年二月五日付栃木県公報(号外第一三号)をもつて、栃木県告示第三〇号として自創法第九条第一項但書による公告をした。

以上の事実を認定することができ、右認定に反する証人牟田口たか子、同牟田口静、同牟田口章及び原告本人(第一、二回)の各供述部分は措信しない。

三、右に認定した本件公告の経緯事情からすれば、栃木県知事は、原告に対する買収令書の交付方を東京都知事に依頼したまま放置し、漫然一年有余の期間を徒過したのち本件公告に及んだものではなく、その間前述の如き出頭受領方の通知及び催告をしたものであることが明らかである。しかしながら、前述の如き程度の措置をとつただけで、それによつて買収令書交付の目的を達することができなかつたからといつて、これをもつて直ちに買収令書の交付が不能であるとみなして交付に代わる公告をすることは許されないものと考える。

すなわち、買収令書の交付に代わる公告をなしうる場合を定めた自創法第九条第一項但書は、「但し、当該農地の所有者が知れないとき、その他買収令書の交付をすることができない場合」に、所定の事項を公告して買収令書の交付に代えることができる旨規定しており、従つて右公告をなしうるのは、所有者の住所が不明であるために交付ができない場合のほか、なお住所不明以外の事由で買収令書の交付ができない場合をも含むことは明らかであるが、反面右規定の体裁からして、所有者の住所が明らかであるに拘わらず公告をなしうるためには、少くとも住所不明に準ずる事由により事実上買収令書の交付が不能であることを要件とする趣旨であることも明瞭である。

それ故、所有者の買収令書受領拒絶を理由に買収令書の交付に代える公告をなしうるためには、その受領拒絶の事態が買収令書の交付不能と同一に評価できる場合に始めて公告の要件を充足するものというべきであり、結局これに該当するのは、行政庁の側で正式に買収令書を持参又は送付して受領を求めたが、所有者がその受領を拒絶し、かつその拒絶の理由などから判断して、爾後買収令書の受領を求めてもこれを拒絶する意思であることが明らかであると認められる場合に限定さるべきものである。

かように、法律が買収令書の交付に代わる公告をなしうる要件を厳格に制限しているのは、買収令書の交付が買収計画の樹立に始まる一連の買収手続を完結せしめる終局処分たる性質をもち、所有者にとつては不服申立をなしうる最終的な機会を保障されるという意味合を有する行為である点からして、もとより当然のことである。

右にみたとおり、買収令書の受領拒絶という事実を認定して交付に代わる公告をなしうるためには、少くとも、所有者において買収令書の受領を拒絶する意思を有することが行政庁に対して明確に表示されたものであることを前提要件とするものである。

この点について被告は、買収令書受領のため出頭すべき旨を通知しかつ催告したのに拘わらず、原告がこれに応じなかつたので、以後買収令書を持参しても原告が受領を拒絶することが明白であると認定して交付に代わる公告をした旨主張し、昭和二七年一一月二八日最高裁第二小法廷判決を引用する。

しかしながら、行政庁において一旦買収令書を原告方に持参又は送付して受領を求めたのに拘わらず原告が受領を拒絶し、その後の催告にも応じなかつたというのであれば格別、本件の場合においては、行政庁が原告に対し買収令書を持参又は送付して受領を求めたという事実すらなく、既に認定したように、単に、ハガキ又は普通郵便をもつて、或は中山主事が原告方に赴いて留守番の婦人に対し口頭で、買収令書が目黒区農地委員会に保管してあるから出頭して受領されたいと通知又は催告したのみであり、これに対して原告が不出頭を繰返したというにすぎなかつたのであるから(原告において右農地委員会までわざわざ出頭して買収令書を受取るべき義務を負うものでないことは言うまでもない)、右不出頭の事実をもつて、行政庁に対する買収令書受領拒絶の意思表示であるとか、ましてや事実上買収令書を交付することが不能であると解する余地のなかつたことは明らかである。なお被告引用の前掲昭和二七年一一月二八日言渡の最高裁第二小法廷の判決は、被買収者が農地委員会のおかれてある村役場に出頭した際、農地委員会書記から買収令書の受領方を促されたのに拘わらず、係争中であるからとの理由でその受領を拒絶した事案に関するもので、右のように、この判決は被買収者が農地委員会書記に対して明確に受領拒絶の意思表示をした場合についての判決であるから、これを本件に引用することは適切ではない。

以上要するに、前認定の本件公告に至る間の事実関係は、何等自創法第九条第一項但書の定める買収令書の交付不能とみなすべき要件を具備していなかつたのである。しかるに、栃木県知事が、右の事実をもつて原告に対する買収令書の交付が不能であると速断し交付に代わる公告をなしたことは、その要件事実の認定に重大明白な瑕疵が存し、それ故、本件公告は、法律の定める前提要件を欠く無効のものといわざるを得ず、従つて本件第一次買収処分は、爾余の争点を判断するまでもなく、適法な買収令書の交付を欠くものとして無効といわざるを得ない。

(ちなみに、これを県当局の行政事務処理という観点からみても、本件のような場合、県としては爾後買収令書受領のため出頭方を催告をしてみても原告の出頭を期待できないことが或る程度予測できる事態に直面したのであるから、その際にこそ、出頭催告による令書交付という従前の便法を繰返すことをやめ、買収令書の持参又は送付等の方法をとるべきであつたのであり、かつ何等それについての支障は存在しなかつた筈であるから、本件公告に出たことをもつて、行政事務処理上やむをえなかつた措置であるとして宥恕することはできない。

ところで、本件第一次買収処分の対象となつた土地は、既に多数人に売渡され、これら売渡を受けた人達が大いなる努力を払つて開墾し、ようやくその生活の基礎が安定し始めた際に、本件第一次買収処分が無効である旨の判決がなされることは、これら多数の開拓者を不安に陥し入れるであろうことも十分考えられるが、行政処分の無効確認訴訟においては、取消訴訟におけるが如き事情判決をなすべき余地がないことは明かであり、かつ既に自創法によつて買収計画が公告された土地等については、農地法施行法第二条の経過規定も存することであるから、行政庁としては改めて然るべき措置を講ずることも可能であると考えられ、他面本件土地の売渡を受けた人達については別に取得時効等のことも考えられることを、茲に付言する)。

第四、第二次買収について。

一、先ず、第二次買収につき、買収令書の交付があつたかどうかについて検討する。

(一)  被告は、一応、昭和二四年四月二五日頃、原告に対する第二次買収令書を普通郵便で原告に送達した旨主張するので、この点について判断するに、その事実を立証するものとして提出された乙第八号証の一ないし四によると、乙第八号証の一は、県の係員が出向いて直接買収令書を交付するからその日時場所を被買収者に通知してもらいたい旨を栃木県農地部長から県内関係市町村農業委員会長宛に依頼した書面の原議であり、乙第八号証の二及び三は、右の原議に基づいて栃木県農地部長から関係市町村農業委員会長に宛てて発送した右依頼状であり、乙第八号証の四は、県外(茨城県)に居住する早瀬儀平に対する買収令書の交付方を栃木県農地部長から茨城県農地部長宛に依頼した書面の原議と、県内に居住してはいるが買収土地の所在地と被買収者の住居地とが異る田野辺寅吉外数名の者に対する買収令書の交付方を栃木県農地部長から関係市町村農業委員会長宛に依頼した書面の原議であつて、これら乙第八号証の一及び四の原議中には、東京都に居住する原告に対し如何なる方法で第二次買収令書を交付するかについては何等の決裁もされていないことが認められる。

然るに証人大山徳次、同伊沢昇の各証言によると、原告に対する第二次買収令書は普通郵便で発送したというのであるが、それは右原議に基づく交付方法とはいえ難く、右証人等の証言以外に、原告に対する第二次買収令書を適法に普通郵便で発送したことを確認するに足る証拠は存しない。

従つて、昭和二四年四月二五日頃原告に対する第二次買収令書を普通郵便で送達交付したとの被告の主張は採用しえない。

(二)  次に被告は、仮りに右送達交付が認められないとしても昭和二六年一一月二四日、書留郵便をもつて原告に対し、第二次買収令書再交付という形で送達交付したと主張するので、この点を以下に判断する。

(1)  原告が昭和二六年一一月二四日頃、同日付の「民有未墾地買収令書再交付について」と題する栃木県知事作成の書面、及びこれに添付された昭和二四年三月一日付の「買収令書」と題する書面を受領したことは、当事者間に争いがない。

(2)  そこで、右各書面の形式内容等をみるに、成立に争いのない乙第一〇号証、同第一一号証の一、二によると、前記栃木県知事作成の昭和二六年一一月二四日付の書面には、先ず「民有未墾地買収令書再交付について」という表題が付されたうえ、「昭和二四年三月二日付買収に係る左記未墾地を昭和二六年一一月一日開催の第三回栃木県農業委員会において取消の議決があつたから、自作農創設特別措置法第三四条(第九条第一項準用)の規定に基づき買収令書を再交付する。なお先に交付した買収令書はおり返し返送願いたい。」との記載があり、次の「記」のところには、右取消にかかる一筆の土地の買収年月日・所在・地番・地目・面積・第二次買収の既買収面積・及び右取消部分を除いた残買収土地の合計面積等の記載がある公文書であることが認められ、更に右書面に添付された昭和二四年三月一日付の「買収令書」と題する書面は、その形式及び内容において正規の買収令書と異なるところはなく(但しその添付の買収物件目録中前記取消にかかる一筆の土地に関する記載欄が抹消されている)、勿論栃木県知事の公印も押捺されており、従つてその外観においては、栃木県知事発行の別紙第二目録記載の土地に対する原告宛の買収時期を昭和二四年三月一百とする同年三月」日付買収令書(栃木る第一、〇〇七号)としての体裁を具えていることが認められる。

而して右認定の各書面の記載内容からすれば、これらは、先に昭和二四年三月一日付で発行された買収令書の交付によつて第二次買収処分が有効になされたことを前提としたうえ、買収土地のうち一筆の土地に対する買収計画が取消されたので、当該土地に対する買収処分を取消す旨を通知すると共に、これに伴い右取消にかかる土地についての記載を抹消した訂正買収物件目録を添付した買収令書を再交付するから、旧買収令書を返還して欲しい旨を原告に通知した書面であることが明らかである。

(3)  ところが、右両書面を送付するについて、その前提となる先に発行の第二次買収令書が交付されていなかつたことは既に認定したとおりであり、また前記買収令書と題する書面を再発行して送付するに当りこれにより改めて買収処分を行う意思ではなかつたことは、被告が自認しているところである。

以上の事実からすると、栃木県知事は、前記一部処分取消の前提となつている買収令書が交付されていなかつたのに、これが交付されて有効な買収処分が既になされているものと誤信して、右一部処分取消通知書に、買収物件目録を訂正した買収令書を改めて作成添付して、買収令書の再交付という形で原告に送付したものと認められる。

(4)  そこで、先に発行された第二次買収令書の交付がなかつた場合、改めて発行された右のような書面の送付をもつて、第二次買収令書の交付と解することができるかどうかについて考えてみる。

もともと、既になされた買収処分を取消すには、その旨相手方に対し取消の意思表示をすれば足りることである。従つて、数筆の土地につきこれを一括して一通の買収令書を作成交付して買収処分をした後、そのうちの一筆の土地に対する買収処分を取消す場合においても、その旨一部取消の意思表示をすれば足りることである。

ところが、その場合に一筆の土地に対する買収処分の取消の意思表示をするにとどめず、該取消部分を除き、引続き買収を維持する土地に対する買収令書を改めて作成して再交付したような場合に、この再交付された買収令書がどういう意味合いをもつものかは、一応問題となるところであり、先になされた買収処分の一部を取消して買収処分を維持する土地を明確にする意味を有するに過ぎないものと解すべき場合もあるであろうし、或は事案によつては先になされた買収処分を撤回して後の令書によつて新たに買収処分をしたものと解する余地がある場合もあるであろう。

しかし、一部処分取消の性質は、先行する買収処分を前提とし、その一部を取消すにすぎないもので、取消部分を除く買収処分は引続きこれを維持するものであることは疑問の余地がないから、それにも拘わらず、再度交付の買収令書に独立の意味を認め、その交付により買収を維持する土地に関する限り内容の重複する買収処分が行われたものとして、その重複の限度において先になされた買収処分の撤回があつたと結論することは、とくにそうした行政庁の意思が表示された場合でもない限り、いかにも事柄の性質に適合せざる見解であるといわざるをえないから、結局この場合、行政処分としては買収処分の一部取消行為が存在するだけであるというの外なく、一部処分取消通知書に添付された買収令書自体については、その本来の意味効果を持たせる余地はないものと解せざるをえない。

しかしながら、右に述べた解釈は、あくまで一部処分取消行為の前提となつた先行処分が存在した場合に関することであるから、何等かの事情で先行処分が実際には存在せず、従つて、一部処分取消行為が不存在の処分を取消すものとして無意味に帰する場合にまで、同一に結論しなければならないということは言いえないのであつて、かような場合に、一部処分取消通知書に添付された買収令書に独立した意味を認め、その本来の効果が生じることを認めうるかどうかは、別個の観点から判断して然るべき問題である。

かような観点から本件事案をみてみると、前記一部処分取消通知書及びこれに添付して送付された買収令書と題する書面が、第二次買収計画の樹立公告等一連の先行した買収手続に基づいて発行されたものであることは明らかであり、該書面において取消部分を除く爾余の土地に対する買収手続を維持する行政庁の意思は明確に表示されているものということができるから、従つてこれを受領した原告としてはこうした行政庁の意思を確認しえたものといわねばならず、かつ第二次買収処分の内容は、一部処分取消通知書に添付された買収令書と題する書面の物件目録中に表示(但し一部抹消された形においてではあるが)されているのであるから、これによつて第二次買収計画に基づいて如何なる土地が買収されたかを原告において十分了知できたものである。しかも、右買収令書は、その外観において権限庁発行の適式の買収令書として何等欠けるところがない、従つてこの場合には、該買収令書発行当時行政庁に欠如していた買収処分意思の補充を認め、右買収令書の送付によつて第二次買収処分を完結する買収令書の交付があつたと解することが、公法関係を支配する信義則や外観主義の原則にも適合する妥当な結論であると思料する。

それ故、昭和二六年一一月二四日頃栃木県知事から原告宛に昭和二四年三月一日付再発行の買収令書が送付されたことにより第二次買収処分の買収令書の交付があつたとする被告の主張は正当であるということができ、これに反する原告の見解には左祖し難い。

二、次に原告は、仮に前記一部処分取消通知書及びこれに添付された買収令書(と題する書面)の送付により第二次買収処分の買収令書の交付があつたといえるとしても、右買収令書は不可能な買収時期(同令書の買収時期の表示が昭和二四年三月二日となつていることは、前記乙第一一号証の二により明らかである)を表示しているから買収処分は無効であり、仮にそうでないとしても、買収の時期後二年九ケ月を徒過してなされた買収処分は無効である旨主張するので、この点を判断するに、自創法に基づく買収においては、買収土地の所有権移転の効果は買収計画に定められた買収の時期に生ずるものであるから、買収の時期は、予め買収令書が交付される日より後の期日に定められることが望ましいにしても、だからといつて買収の時期を買収令書交付の時期以後に定めなければならないとする論理的な必然性もなく、またその旨をとくに要請した規定も存しないのであつて、むしろ実際上、右時期より遅れて買収令書の交付がなされることは同法の予定するところであるといわねばならないから、本件買収令書は不能の買収時期を表示したものということができないことは勿論、また右買収令書の交付が買収時期より数年間遅れたのちになされたからといつて、直ちにそれが買収処分の違法を招来するものと解すべき根拠は見当らない。

三、以上に述べたとおり、第二次買収処分の無効を主張する原告の見解はいづれも採用できず、結局第二次買収処分は、前記昭和二四年三月一日付買収令書が昭和二六年一一月二四日頃原告に送付されたことにより、買収時期である昭和二四年三月二日に遡つて有効にその効力を生じたものというべきである。

第五、第三次買収について。

原告は、第三次買収の買収令書の交付を受けていないと主張するのであるが、証人大山徳次、同伊沢昇の各証言、及びこれらの証言により栃木県当局が作成し保管する「民有未墾地買収令書交付について」の原議であることが認められる乙第九号証を総合すると、原告に対する第三次買収令書(栃木つ第三一号)は、昭和二六年三月六日頃栃木県知事から原告に対し書留郵便で発送されたことを認定できるから、その不到達を推認させるに足る特段の事情がうかがわれない本件においては、該買収令書はその頃原告に到達したものと推認するのが相当である。

右認定に反する証人牟田口たか子、同牟田口静、同牟田口章、及び原告本人(第一回)の各供述部分は措信せず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

そうすると、昭和二六年三月六日頃第三次買収令書が原告に対し送達交付されたことにより、買収の時期である同月二日に遡つて有効に第三次買収処分が行われたものというべきであるから、この点に関する原告の主張は理由がない。

第六、結論

以上の次第で、本件買収処分の各無効を主張する原告の本訴請求は、第一次買収処分の無効確認を求める部分についてのみ理由があるからこれを正当として認容すべく、その余の請求はいづれも理由がないからこれらを棄却することとし、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法第九二条第八九条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 石沢三千雄 久米喜三郎 橋本攻)

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